サルタックの教育ブログ

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なぜ「人的資本論かシグナリング理論か」論争は不毛なのか?教育の経済的リターンを社会学的に考える

オックスフォードからこんにちは!先週、理事の畠山が「学校なんか行っても意味がない!」という記事で、人的資本論とシグナリング理論(特に後者)について解説しましたが、今回はこれらの経済学理論が現実社会を捉える上でなぜ不十分なのか、という点を社会学分野の研究を参照しながら考えていきたいと思います。具体的な視点は多岐に渡りますが、ここでは特に①能力と学歴の不一致性と社会的閉鎖、②社会全体における教育拡大に伴う学歴の相対的価値の変化、③教育システムの多様性と労働市場との連結性、の3点に絞ってご紹介します。
なお、誤解のないように予め申し上げておきますと、タイトルにあるように「人的資本論かシグナリング理論か」という二分論はあまり意味がないと思う一方で、それぞれの理論自体は社会の諸相を説明する一つのモデルとして有用ですので、まだご覧いただいていない方は、上述の記事とそこで紹介されている関連記事を是非ご一読ください。

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1. 高学歴者は能力が高い?

先週の畠山の記事では、人的資本論とシグナリング理論の「違い」に焦点が当てられていますが、双方に「共通」している一つの基本的な見方(仮定)があります。それは、結局のところ高い学歴(学校歴も含む)と高い能力が結びついている、というものです。というのも、人的資本論によれば高い学歴を獲得する過程(教育・学習プロセス)を通じて能力が高まり、シグナリング理論によれば高い能力を有している人は高い学歴を獲得してシグナルを送ることになるため、教育が学習者の能力向上に寄与しているか否かは別として、少なくとも教育課程を修了した時点で、学歴の高低と個人の能力の高低が結びついている(高学歴者=高い能力、低学歴者=低い能力)ことが想起されます。(そもそも「能力」とは何かという点や、教育達成を何によって可視化するか(学歴か教育年数か)といった技術的な点についても議論がありますが、本稿ではその詳細は割愛し、認知的・非認知的な要素を含めた総合的な能力と学歴を前提として議論を進めます。)

しかし、実際には学歴と能力が必ずしも一致しないことは、(日本の現状を鑑みても!?)容易に想像できると思います。つまり、高学歴者であっても能力が高くない人もいれば、逆に学歴が低くても非常に能力が高い人もいるはずです。このとき、もし前者(高学歴だけど能力が高くない人)が後者(低学歴だけど能力が高い人)よりも望ましい経済的アウトカム(安定した雇用や高い収入・所得)を得られているとしたら、それはなぜでしょうか。一部の経済学者が強く主張するように、経済的なリターンが個人の能力を反映するのであれば、上記の例でいえば後者の方が前者よりも望ましいアウトカムを獲得するはずですが、実際には「(能力よりも)学歴がモノをいう」社会であることは、様々なデータが示しているところです。

このシンプルな問いに対する一つの説明として使える社会学的な概念が、社会的閉鎖(Social Closure。以下Closure)というものです。以前の記事でも少しだけ触れましたが、Closureは何らかのステータスを獲得する上で社会的に構築された条件・制約が機能している状況を意味します。この適用範囲は非常に広く、例えば、とあるスポーツクラブに入るためには特定の地域に住んでいることが必要(居住地域が差別要件として機能)、とあるファンクラブに入るためには入会金●円と月会費▲円が必要(経済的資源の有無が差別要件として機能)、とある大学の図書館を使いたいけど教職員と学生しか使えない(大学のメンバーシップが差別要件として機能)、選挙権が20歳以上の男性のみに付与されており女性と20歳未満の男性は投票できない(性別と年齢が差別要件として機能)、などなど枚挙にいとまがありません。なお少し本題から逸れますが、ここで一つ強調しておきたいのは、上述のとおりこうした条件・制約はあくまで「社会的に構築された」ものであり、長い期間にわたって同じ状況が続いていると「当たり前」に思えてきてしまうものでも、実は社会のコンセンサスを通じて変えることができるという点です。

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さて、この概念に沿って考えれば、「高学歴だけど能力が高くない人」が「低学歴だけど能力が高い人」に比べて望ましい経済的アウトカムを享受している場合、社会的に「学歴」という基準がClosureとして機能し、能力が高くても低学歴の人を排除(冷遇)し、能力が低くても高学歴の人を包摂(厚遇)していることになります。実際、就職活動をする際、極めて多くの職業が学歴を応募要件の一つとして設定しており、この任意に設定した学歴という一つの社会的な基準で、当該職業を手に入れるためのスタート地点に立てるか否かが左右されているのが実態です。これを見ると、「結局、肩書としての学歴が機能しているという意味では、シグナリング理論と同じことを言っているだけではないか」と思う方もいるかもしれません。確かに、学歴がスクリーニングの道具として社会的に使われているという意味では大差ありませんが、冒頭で述べたとおり、「高い能力を有している人が自らの優位性を示すために高い学歴を獲得してシグナルを送る(労働市場もそのシグナルを活用する)」というシグナリング理論の考えと、「能力の高低にかかわらず高い学歴を有している人が優遇され、低学歴者が排除されている」というClosureの考えは、学歴と能力の関係性についての前提条件が大きく異なります。つまり、特定の職業の応募要件として学歴が設定されている場合、シグナリング理論に立てば「何だかんだいっても学歴と能力の間には相関があるから、学歴を基準として設定するのは合理的」と考えられますが、Closureの見地に立てば「高学歴者は能力が低くても相対的に守られ、低学歴者が能力にかかわらず排除される」と言うことも可能になります。

ここで、筆者が(シグナリング理論に加えて)Closureの見方も非常に重要だと思う理由の一つは、現実社会において学歴が一体何を反映しているのか考えたとき、学歴は能力だけでなく(むしろそれよりも?)他の社会経済的な要素の代理指標となっている可能性があるからです。例えば、学歴は単に家庭環境が違う形で表出しているだけかもしれませんし(社会経済的に恵まれた家庭出身であれば能力にかかわらず高学歴になる一方で、不利な環境で生まれ育つと高学歴になるチャンスが非常に小さくなる)、ジェンダー差別が酷い男性優位社会で女性にそもそも進学機会が開かれていない場合、高学歴という指標は単に男性であることを意味しているだけかもしれません。こうした社会では、人的資本論にしてもシグナリング理論にしても、高い学歴と高い能力が結びついていることを前提として高学歴者を優遇し続けた場合、多くの個人にとって不公平なだけでなく、社会全体として経済的に「非合理」な選択をし続けている可能性もあるわけです(一部の社会学の流派では、こうした非合理的な選択も、特定の既得権益層が自らの権益を守るためにClosureを意図的に構築して排除の構図を生み出している合理的で排他的な選択の結果である、といった議論もありますが、ここでは詳細は割愛します)。これらの複雑な関係性を、単に経済学モデルにおける仮定設定の問題と片付けることもできますが、実際に教育・社会政策への示唆を念頭に置くと、社会的に構築されたどのような条件・制約が、学歴や能力の獲得、及びそれらと経済的なアウトカムの関係性をどのように形作っているのか注視することは、教育に対するリターンが人的資本論とシグナリング理論のどちらで(どの程度)説明できるのか、という問いとは別の文脈で非常に重要といえるでしょう。

なお蛇足ですが、Closureについては、当該理論を十分に理解せず&対案もないまま学問的貢献がないと批判する社会学者も日本国内で散見されますが、、、第一線の研究(例えば、国際的に権威のある(教育)社会学分野のジャーナルに掲載される論文)でも頻繁に使われている主要な概念ですので、少なくともこの視点を持つこと自体は無駄ではないでしょう。筆者も、とある大規模データを使って、できるだけ国の文脈に依存しない形で(各種要因をコントロールして)教育と経済的アウトカムの関係を分析したところ、Closureの考えできれいに説明できる(人的資本論やシグナリング理論では説明できない)結果が出てきました。その詳細については、また稿を改めてご紹介します!

2. 社会の中で高学歴者が増えたらどうなるか?

多くの社会学者が問い続けてきたもう一つの問いが、「社会全体で教育拡大が進行したときに、教育の経済的価値はどのように変わるのか/変わらないのか」というものです。下の図で、青線の円が一つの社会を示し、黒線の顔が最終学歴=高卒の人、赤線の顔が最終学歴=大卒の人だとすると、左側の社会では大卒者が占める割合は小さく、社会全体の中で大卒者の希少性が高い=レアということになります。他方、教育拡大が進行して大卒者が増えると(右側の社会)、全体の中で大卒者の割合は大きくなり、希少性が低い=レアではない、ということになります。ここで、仮に人的資本論が想定するように、教育が学習者の能力・生産性を高めて賃金に反映されるのであれば、社会全体としても経済発展が促されてパイ(雇用や収入・所得)が拡大し、一人ひとりの大卒者に対するリターンは維持(あるいは拡大)することが期待されます。他方、もしパイの拡大が教育拡大のペースよりも遅い(あるいはそもそもパイが増えない)場合、社会全体の中で増加した高学歴者の間で限られたパイを奪い合う構図が発生し、結果的に一人ひとりの大卒者に対するリターンは小さくなることになります。これが、畠山も指摘していたように、典型的な学歴インフレ(Credential Inflation)や教育過剰(Overeducation)の問題となります。これらは、少し専門的な用語を使えば、教育が希少性にかかわらず絶対的な価値を有しているか(Absolute goodか)、あくまで相対的なポジショニングを示す価値しか有していないか(Relative/Positional goodか)、という問いにもなります。

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ここで重要なのは、仮に社会全体で教育拡大が進行した場合、全体として(平均的に)教育に対するリターンが減少/維持/増加しているか否かという点だけでなく、それらの変化が個人・社会の様々な属性・条件に応じてどのように分布しているかという点です。例えば、教育拡大に伴って下図のように多くの高学歴者が望ましいアウトカムを得られなくなった場合(赤線・黒塗りの顔)、特定の属性を有する高学歴者は引き続き高いリターンを享受する一方(赤線・白塗りの顔)、それ以外の高学歴者が割を食う(penaliseされる=ペナルティを課される、という表現をします)可能性があります。「特定の属性」は上述のとおり各社会でどのようなClosureが存在しているか、という点と密接に結びついており、とある社会では教育拡大に伴って高学歴者の女性のみがペナルティを課されるかもしれませんし、またとある社会では社会・経済的に恵まれた家庭出身の高学歴者のみが望ましいアウトカムを維持できるかもしれません(もちろん、これらの諸条件が複数絡み合っている社会もあるでしょう)。こうした実態を捨象して一概に教育の経済的価値が減少した/していない、といっても、あまり有意義な施策・取組には結びつかないことは想像に難くありません。しかしこれは同時に、社会全体の教育拡大に伴ってどのような層が社会的な条件・制約によって(必要以上に!?)得をし、誰が不利益を被っているのか明らかにした上で、その条件・制約を取り除くことができれば、個人にとっても社会全体にとってもより望ましいシステムを構築することが可能であることを意味します。(何が「望ましいシステム」か、という点については別途議論が必要ですが)

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なお、上述のような視点で教育拡大による影響を検証する場合、教育を受ける(高学歴になる)ことに対するリターンがしばしば注目されますが、昨今、教育を受けない(低学歴にとどまる)ことのネガティブなインパクトに着目した研究も増えてきています。つまり、社会全体で教育拡大が進行して高学歴者の割合が増える中で、高学歴がClosureとして強く機能してくると、低学歴者が望ましい経済的アウトカムを獲得するチャンスが一層限られ、従来よりもペナルティを課されることで、結果的に高学歴者と低学歴者の格差が維持・拡大される、とも考えられるのです。さらに、社会的(不)平等や格差に関する研究では、教育拡大によって全体として教育に対するリターンが減少した場合、社会・経済的に恵まれた層は高い教育達成を通じて望ましい経済的アウトカムを獲得する戦略は放棄し、それとは別にClosureを作り出し、教育水準にかかわらず様々な資本(経済的豊かさ、文化的な水準、人脈など)を有しているか否かで雇用や収入・所得が左右されるような仕組みを構築してしまう(結果として、恵まれた家庭出身の子供は望ましいアウトカムを獲得する、といった格差の固定的再生産が導かれる)といった議論もあります。詳細は割愛しますが、以上のような考え方は以下のように図示することもできます。

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3. 教育システムを見てみると・・・

先週の畠山の記事で触れられていたように、教育に対する経済的リターンは、教育市場と労働市場の相互作用で決まってくると考えられます。という説明を聞くと、「教育市場」という表現に違和感を抱く方もいらっしゃるのではないでしょうか。というのも、確かに教育の世界を巡っては、教育に関する財・サービスを提供する供給者(教育行政、教育機関、民間企業など)とそれらを受ける需要者(学習者・家庭など)が存在し、「市場(market)」という用語で説明可能な側面もあります。しかし、教育の経済的価値がどのように決まるかを考えると、単に「市場」という言葉で想起されるような需給バランスだけでなく、もう少し具体性を伴った「教育システム(system)」が非常に重要な役割を果たすことになってきます。

この教育システムと教育に対するリターンの関係性を検証するアプローチは様々ありますが、社会学分野の代表的な視点は、「教育システムにおけるトラッキングや職業教育志向がどの程度強いか」というものです。トラッキングとは、個々人が進学する(できる)コースがどの程度・いつから分岐しているかを示す用語で、例えば日本では非常に多くの人が高校まで進学し(もちろん高等専門学校や専修学校もあります)、そこからさらに学びを続ける場合は大学や短大などへ進学するルートが少なくとも制度上は多くの人に開かれています。他方、シンガポールなどでは非常に早い段階から学力試験等をベースにした選抜が行われ、その結果によってその後に進学できるコースが限られてきます(いわゆる「敗者復活」もありますが)。また、ドイツやオーストリアなどでは、中等教育段階からアカデミック志向のコースとは別に職業教育を重視したコースが用意されており、特定の職業と結びついた知識・スキルを高めることが目指されています。

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こうしたトラッキングや職業教育志向(以下、まとめてトラッキング)が社会によって異なることを踏まえると、例えば同じ「大卒」「高卒」といっても、その学歴(教育資格)が各社会の中で有している意味は非常に多様であることが想起されます。実際、教育社会学分野で権威のあるSociology of Education(SOE)というジャーナルに数年前に掲載された論文は、トラッキングが強い国では、学歴が特定の知識・スキルと結びついている(と社会において認知されている)ため、そのシグナリングパワーが強くなる(経済的アウトカムに結びつきやすくなる)ことが示されています。また、比較教育学分野の代表的なジャーナルの一つであるComparative Education Reviewに掲載された社会学的研究も、トラッキングが強い社会では教育に対する職業的リターンが大きい(ただし同時に社会格差を固定的に再生産しやすい)ことを実証的に示しています。さらに、SOEに最近掲載された論文は、トラッキングが比較的弱くジェネラル志向のイギリスと、トラッキングが比較的強く学歴と具体的な知識・スキルの結びつきが強いオランダを比較し、前者においては全般的に学歴の高低(例えば、大卒か高卒か)が就職時にモノを言う一方、後者においては学歴の高低よりもどの分野で学問を修めたか(例えば、工学か法学か教育学か)が就職時点の労働市場における人材需要との兼ね合いで重要になってくる、といった知見を提示しています。なお、教育システムによる差異は捉えきれていませんが、別の社会学的研究では、社会の中で教育拡大が進行した際、社会科学や人文科学などのジェネラルな分野の学歴に対するリターンは小さくなる一方、工学や理学などの学歴はその価値が大きく損なわれない傾向があると指摘しています。これらの研究に関連して、トラッキングが強い社会で学歴に対するリターンが大きいのは実際にスキルが高まっているからなのか(人的資本論)、それとも社会的に学歴とスキルとの結びつきが強いと認識されているからだけなのか(シグナリング理論)については、実証研究の中でも引き続き見解が分かれており今後の検証が待たれるテーマですが、いずれにしても教育システムの異同が重要な視点になることは間違いありません。

4. おわりに

今回は、人的資本論とシグナリング理論を念頭に置きつつ、教育と経済的アウトカムの関係性に関する社会学的研究の一部を紹介しました。本稿で触れた観点以外にも、教育の価値(学歴・スキルとアウトカムの(ミス)マッチ)を巡っては、先週の畠山の記事でも触れられているように学歴インフレや学歴病(diploma disease)、教育過剰(overeducation)、スキル過剰(overskill)、スキル利用(skill use)、さらには教育と非経済的なアウトカム(健康、社会参加、幸福など)の関係性、個人レベルだけでなく社会レベルのアウトカムなど、様々な観点から研究が蓄積されています。繰り返しになりますが、いずれの方向性を突き詰めるにしても、ここで重要なのは単に教育に対するリターンは人的資本論とシグナリング理論のどちらでどの程度説明できるのか、という話だけでなく、社会的に構築されている(時に私たちが当たり前と思ってしまいがちな)条件・制約によって教育とアウトカムの関係性がどのように発現しているのか(歪んでしまっているのか)を見極め、教育・社会政策や実務を通じて社会の「ほころび」を正していくことでしょう。この観点を大事にしながら、サルタックとしても様々な活動を展開していきたいと考えていますので、是非ご支援のほどよろしくお願いいたします!

荒木啓史

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